先日、ご招待をいただき、久しぶりで演奏会にでかけた。在京のプロとしては新しいオケ、東京ニューシティ管弦楽団の定期演奏会だった。この時期にしてはわりと過ごしやすい日曜の昼さがり、東京オペラシティ・コンサートホールへ向かった。演目は、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と第4交響曲「イタリア」、そしてソリストに河合優子でショパンのピアノ協奏曲第2番。好きなシンフォニーとコンチェルトをライブで聞けるの楽しみにして会場へ入ったところ、思いがけずこの日の演奏会がいわゆる「ピリオド奏法」で行われることを知った。
「ピリオド」とは、歴史学では「時代区分」を表す術語のひとつで、クラシック音楽業界では、作曲当時の演奏習慣に忠実に演奏することを「ピリオド奏法」といっているようだ。作品と演奏の同時代性を重視する、近年急速に世界的な市民権を得つつある風潮といえる。
100年、200年前、あるいはそれ以前の時代に作曲された作品の場合、作曲当時と現代とでは楽器のありかたがそもそも違う。楽器は時代と共に進化している。そうした歴史的な楽器群は「オリジナル楽器」または「ピリオド楽器」といわれ、現代の「モダン楽器」と区別される。見た目は昔と同じような弦楽器でも、もともとガット弦だったものが、現代ではスチール弦へと変化している。弓にしてもモダン楽器とは形状が違っていたりする。
それだけでも響きの違いは容易に想像できるわけで、20世紀の半ばくらいから、バロック音楽を古い楽器そのものまたは復元された「ピリオド楽器」を用いて当時の奏法で演奏しようという試みがいくつかの演奏団体によって始められた。このあたりが伏線となって現在へと波及し、浪漫派以降の作品の「ピリオド奏法」へとつながっているのだろう。
20世紀の初め頃までの演奏習慣では、弦楽器は「ヴィブラート」をかけず、弓の使い方だけでさまざまな表現をしていたという。ヴィブラートは任意の装飾音の一種とでも言うことができるだろうか。よってピリオド奏法かどうかの目安は、ヴィブラートがかかっているかどうかということになる。ただし、その名が示すようにこれはあくまでも「奏法」のことであって、使用される楽器については古楽器かモダン楽器かはとくに区別されないようだ。モダン楽器を用いていても「ピリオド奏法」はされる。
楽器とともに重視されるのが演奏に使う楽譜で、後世にさまざまな形で加えられてしまった反時代的な筆跡をとりのぞき、作曲家のオリジナルなペンに忠実な譜面が前提となる。作曲者の意図に最も近いと思われる状態で出版された楽譜が「原典版」だ。学術的研究をもとに編纂された「新バッハ全集」「新モーツァルト全集」などはそうした代表として知られる。どの版を使うか、というのも今日では演奏解釈の重要なポイントだ。
演奏会の開演前に指揮者の方が10分ほどプレトークをしてくれた。ショパン作品の楽譜のこと、特にピアノ・コンチェルトと、ピリオド奏法……。興味深かったのは、2番のコンチェルトは、自筆譜が全曲にわたりピアノ独奏譜として書かれ、管弦楽パートもピアノ・ソロで弾くことができるということ。オーケストレーションの大半は若いショパンに代わって経験豊富な先輩音楽家たちが手伝った、というのだ。
こうした複雑な事情が、今日さまざまな演奏解釈を生むことにつながっている。ショパンの作曲意図をどう理解するか。楽譜上には疑問点が多数浮上しているという。そういえば、コンチェルト第2楽章で出てくる弦のコル・レーニョは、本当に作曲家ショパンが必要とした指示だったのか、素朴な疑問だ。
のちにベルリオーズが「幻想交響曲」で、ホルストが「惑星」で指示してはいるけれど、なにぶんにも弓の背の木の部分で弦をたたいて音を出すという奇異な奏法だ。二十歳前後の若い作曲家がこのロマンティックな緩序楽章で、なにゆえコル・レーニョ奏法を求めなければならなかったかと思ったとき、他人の手が入っているとなれば少しは納得がゆくような気もする。
この日使われたピアノ・コンチェルトの演奏譜は、ポーランド政府が国の威信をかけ国家的プロジェクトとして出版している「ナショナル・エディション」という版で、現在もっとも信頼できるショパン作品の楽譜だという。また、メンデルスゾーンのイタリア・シンフォニーは「ブライトコプフ2004」、フィンガルが「ベーレンライター・ホグウッド新校訂版」ということだった。
はたして、生演奏のモダン・オーケストラによるピリオド奏法はどうだったか。ワーグナーが絶賛したという「フィンガルの洞窟」の本来の響きはこれです、というふれこみだったけれど、なるほどこころなしか自然な感じがした。「イタリア交響曲」もしかり。華美にして過剰な装飾にまみれていない、メロディーの美しさが引き立っていたのではないかと思う。
童謡をソプラノ歌手がブルブルとヴァイブをたっぷりにきかせて歌うのを聴くと、ちっとも童謡らしく聞こえなくてつまらない。音楽のシルエットをかき消しているのだと思う。子供だってコワがる。こうなると何のための童謡か、本末転倒だ。極端な喩えかもしれないが、何でもかんでもヴィブラートというのは、つまりこういうことなのだろう。