2002年秋、東京のすみだトリフォニーホールで、ジャン=ギアン・ケラスというカナダ人チェリストの演奏を聴いた。当時は自分にとって未知の演奏家だったが、古今のチェロ・ソロのための作品を3日連続で演るシリーズの2日目、カサドの無伴奏チェロ組曲がナマで聴けるということで出かけてみたのだった。
その演奏ぶりは今でもとても印象に残っている。とくに現代曲でよく見られたのだけれど、フォルティッシモから急にピアニッシモに切り替わるような難しそうなパッセージを、実にしなやかな弓裁きで弾きこなしていた。下手な演奏家なら、音楽の輪郭がぶれても不思議ではないようなところを、まったく動じることもなく、自然にこなしているという感じだった。
F1レースにたとえる。時速300キロでスッ飛んできたマシンが、ストレートエンドから一気にブレーキングで90キロまで減速してタイトな低速コーナーに進入し、ハンドルを切り返すこともなく、レコードラインを外すこともなく、マシンを暴れさせることもなく美しい曲線を描いて走り抜けていくイメージ……。そんなことがアタマをよぎるような演奏だったのを、昨日のことのように思い出す。
プログラムのラストは、バッハのチェロ組曲第3番。冒頭のプレリュードは早めに感じたが、ヴィヴラートを抑制したピリオド風の演奏が最後まで一貫していたように思う。軽やに弾むようなプレイを堪能して家路につきながら、しなやかさと強さをバランスよくコントロールできる、超一流の職人でもある芸術家との出会いを喜んだものだ。
そのケラス氏が、最近バッハの組曲を全曲録音し、つい先頃そのCDが出た(第3番のパフォーマンスをフル収録したDVD付きなのでちょっと値が張るけれど)。フランスの小さな教会での収録で、自然なエコーが心地よい。演奏会で聴いた、強くてしなやかなケラス氏がそこにいた。
「ハリとバネのあるチェロの美しい音色」と販売元の資料に書いてあったが、まったくそのとおりだと思う。そして、ケラス氏自身が語る。「バッハの組曲では、弓をまるで剣の名手のように使いこなせることが要求される。フェンシングのチャンピオンみたいに。」このコメント読んですべての合点がいくのである。
先頃亡くなったスラヴァ、ロストロポーヴィッチも教会で録音していたが、ケラス盤は音響も含めてそれを凌駕しているのではないか。時に躍動し、時に敬虔な祈りをささげるように、均整のとれた精神性によって作品世界へと引っ張りこまれる快感を、聴き手は感じずにはいられない。
毎年のように来日公演が聞けるようになった、ジャン=ギアン・ケラス。またトリフォニーホールに登場してくれないだろうか(お願いしますよ、U野さん)。